第五幕 昭和時代「紙芝居の隆盛と黄金バット」

それまでの「立ち絵」は時代劇が主流でしたが、「平絵」は現代を舞台とした作品で、「男の子に人気の活劇」「女の子に人気の悲劇」そして「幼児向け漫画」の三つのジャンルがありました。

1930年の秋に作られた「黄金バット」は大人気になりましたが、当時の紙芝居業界には、著作権という意識がなかったので、様々な「黄金バットもどき」が作られました。

街頭紙芝居の画面のアップやロングの表現方法は、映画のカメラワークを模したもので、平絵の紙芝居屋は映画館のミニチュアだったという分析もあります。(タラ・マックガワン「紙芝居の教室」2010)

街頭紙芝居屋は、「紙芝居が子どもにとってどんな教育的な効果があるのか」といったようなことは考えていませんでした。

しかし、つまらないものを見せていたら、子どもたちは集まらなくなってしまうので、どうしたら子どもたちをおもしろがらせて、惹きつけることができるかを日々工夫することは、紙芝居の「娯楽性」を追及する行為でした。

街頭紙芝居の「平絵」の裏には、ストーリーやセリフは書かれておらず、ラフな展開が先輩から口伝(くでん)で伝えられるだけだったのです。そのため、絵を見ればストーリーが分かるようになっていました。

演者である紙芝居屋は、目の前にいる子どもたちの反応を観察しながら、臨機応変にアレンジしながら、物語を作り上げていたわけで、そのプロセスには紙芝居屋だけではなく、聞き手の子どもたちも参加していたことになります。

街頭紙芝居は、全てが手描きされたもので、ひとつのタイトルで100巻を超えるようなシリーズ物だったので、作品としてのまとまりもなく、完成度もおそまつなものでした。

しかし視点を変えれば、当時の街の景観としての「景観文化」であり、日本の「語り文化」と考えられているのです。

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