第十一幕 保育園での教育紙芝居

街頭紙芝居への当局の締め付けが厳しくなっていく半面、1948年に文部省は「保育要領‐幼児教育の手引き」で、紙芝居を初めて「保育教材」として制定しました。

街頭紙芝居は、駄菓子を売るための人集めの道具だったので、質が高いものではなかったのですが、教育紙芝居では、「生きる意味とすばらしさ」を込めた優れた作品が作られるようになったのです。

教育紙芝居は、保育園で急激に普及して、保母が子どもにせがまれるままに紙芝居ばかり演じていたので、子どもたちが「紙芝居中毒になっている」という指摘もされました。

1952年に「教育紙芝居研究会」が発足して、戦争への反省、平和への誓いをテーマにした「原爆の子」が長田新によって、紙芝居として発表されました。

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