250万人とも言われた失業者の救済事業のひとつとなった街頭紙芝居ですが、一気に紙芝居屋が増えた背景には、映画の変遷も関わっていたのです。
1895年に誕生した映画は、音声、音響、俳優のセリフが入っていない「無声映画」(サイレント映画)でした。
1985年に映画フィルムに音をつける技術ができるまでは、スクリーンの横で楽団が演奏をして、「活動弁士」(活弁)が、語りを担当したのです。
弁士は映画のシーンを解説しながら、自分のセンスで登場人物のセリフを巧みに入れて、その話術で映像の世界のナビゲートしていた弁士は、ナレーターであり、アナウンサーであり、声優であり、そしてシナリオ・ライターでもあったのです。
トップクラスの弁士は、有名な映画俳優や当時の首相ほどの給料をもらうほどで、人気の職業で、同じ映画でも、弁士の語りによって、印象が変わって、おもしろくもつまらなくもなる、嬉しくも悲しくもなって、映画館への客の入りを左右することになるので、人気のある弁士の引き抜き合戦も起こったのです。
無声映画の洋画の代表作は、1902年「月世界旅行」、1903年「大列車強盗」、1925年チャップリンの「黄金狂時代」「戦艦ポチャムキン」そして1927年「メトロポリス」など。日本映画では1918年「生の輝き」1925年「村の先生」1928年「血煙高田馬場」など。
1927年に世界初のトーキー映画(発声映画)「ジャズシンガー」が上映されてから、トーキー映画が主流になると、全盛期には全国で8,000人もいた弁士は失業することになり、その多くが語りのスキルを活かせる立ち絵紙芝居に転職したのです。
(佐々木亜希子著 活弁士とは?)
「黄金狂時代 1925年 チャールズ・チャップリン監督 主演」
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