昭和になって1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌によって失業した人たちが、日銭が稼げるということで、われもわれもと「立ち絵紙芝居屋」になりましたが、「街頭で演じることによる交通への妨げ」「子どもに売る飴の食品衛生上の懸念」「教育的な見地から子どもには不適切な内容」と批判されて、1929年に行商禁止令が施行されました。
子どもたちが紙芝居屋から飴を買ってしまうので、近在の駄菓子屋から営業妨害だと被害を訴えられたことを受けて、1931年には東京の浅草菊屋橋付近を回っていた「立ち絵紙芝居屋」は、街頭での興行を警察に禁止されました。
そのような社会情勢を受けて、窮余の策として、「後藤時蔵」は絵を見せながら語りを入れるスタイル、「平絵」あるいは「絵話」と呼ばれる現在の紙芝居と同じ「平絵紙芝居」を考案しました。1930年に作られた「魔法の御殿」という作品が「平絵」の始まりとされています。
「平絵」の3作目に作られた「黄金バット」が大人気となって、わずか数か月で街頭紙芝居は従来の「立ち絵」から「平絵」に置き換わっていったのです。
街頭紙芝居屋は、自転車に紙芝居と駄菓子を積んで、町々を回って、拍子木を鳴らして、子どもたちを集めて飴を売る「行商人」でした。
1933年に行われた警視庁と東京市の調査では、市内の平絵紙芝居製作所は93ヶ所、売り子と呼ばれた会員数は1,265人でした。
1934年には、貸し元15社が合併して「日本画劇教育協会」が設立されましたが、会員1,837人の前職を調べたところ、従来の立ち絵紙芝居出身者は10%で、80%は失業した小商人、職工、職人からだったのです。
「平絵」を使って街角で演じる「街頭紙芝居屋」は、1935年には、東京市では2,500人、全国では3万人に達したといわれ、東京市の調査では1日に街頭紙芝居を見ている子どもの数は60万人から100万人と推計されて、大きな影響力を持つメディアとして認識されていたのです。
平絵紙芝居を制作して、紙芝居屋に貸し出していた「貸し元」(絵元)も100社に迫る数になりました。紙芝居の作品の制作会社でもあった「貸し元」は、脚本家や絵描き、彩色者を雇って制作した手描きの一点ものの紙芝居を会員となった紙芝居屋に貸し出していました。
「黄金バット」は、貸し元の「蟻友会」が提供したもので、「富士会」「松島会」「そうじ映画社」は会員数も多く、人気作品を制作していました。平絵紙芝居は、当初から裏にストーリーが書かれていたわけではなく、先輩の紙芝居屋から後輩に「口伝」されていましたが、それは、紙芝居屋になる人たちが受けた教育水準にも関係していたと言われます。
平絵の貸し出しに会員制をとっていた「貸し元」ですが、観客である子どもたちをたくさん集められる人気作品を提供できない「貸し元」は見限られて、紙芝居屋は他所に移ってしまったのです。
「活劇」(冒険もの、幕末もの、捕りもの)「悲劇」(まま母悲話、孝行美談、少女悲話)「マンガ」(滑稽話)の3つのワンセット上演により、性別や年齢に偏りがなく、どの子どもでも楽しめたということが大きかったのです。
しかし、紙芝居の興行は、飴を売るための手段であり、子どもに対する教育的な効用を目的としていたわけではありません。街角でこどもたちを集めるために、街頭紙芝居の作品には、刺激的な表現を伴うものや荒唐無稽な展開や怪奇ものが少なくなく、子どもの親や教育者などからは、「低俗な娯楽」と批判されました。
原色を使った派手な色彩の紙芝居は、屋外で見せるためのものだったからです。また、100巻を超えるようなシリーズものだったのは、続きを期待させて、次回に子どもたちを集めるための営業テクニックでした。
しかし、子どもたちは「グロテスクな絵が見たいから」、あるいは「飴を食べたいから」という理由だけで、紙芝居に集まるのかと言うと、それだけではなかったのです。
子どもたちにとっては、紙芝居は、「紙芝居を囲むなかよし空間」「想像力を掻き立てるワクワク感」「演者と子どもたちとの双方向のコミュニケーション」が魅力であり、グロテスクなものや荒唐無稽なストーリーなどは、日常から解放される「生命力を感じさせるもの」として、子どもたちに受け入れられていたのではないかと考えられています。
コメント