紙芝居の誕生の歴史は、次のように語られています。
19世紀の初め、「立ち絵(たちえ)」は、紙に描いた人形を動かして「歌舞伎まがい」の芝居を演じたことから、やがて「立ち絵紙芝居」と呼ばれるようになったのです。
竹串に15センチほどの切り絵を貼り付けて、小さな舞台で動かすもので、「写し絵」や「のぞきからくり」などと同様に「見料」をとって見せるお祭りや縁日での小屋掛け芝居として始まったのです。芝居小屋の中に、幕を張って、太鼓や拍子木などの鳴り物も付けて、いろいろな演目が披露されました。
大正期に入ると「立ち絵紙芝居」は廃れていきますが、1923年の関東大震災前後に、「てきや」の支配下から離れた新興勢力が人形と上演を簡素化して、普及し始めた自転車で街角や公園に出かけて、入場料の代わりに飴などを売りながら、子どもたちに紙人形を使った「紙芝居」を見せるようになりました。
「立ち絵紙芝居屋」は、「飴売り行商人」として、子ども向けに復活を果たすのです。
昭和になって1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌によって失業した人たちが、日銭が稼げるということで、われもわれもと「立ち絵紙芝居屋」になりましたが、「街頭で演じることによる交通への妨げ」「子どもに売る飴の食品衛生上の懸念」「教育的な見地から子どもには不適切な内容」と批判されて、1929年に行商禁止令が施行されました。
そのような社会情勢を受けて、窮余の策として、「後藤時蔵」は絵を見せながら語りを入れるスタイル、「平絵」あるいは「絵話」と呼ばれる現在の紙芝居と同じ「平絵紙芝居」を考案しました。1930年に作られた「魔法の御殿」という作品が「平絵」の始まりとされています。
紙芝居は、紙に描いた人形を動かして演じていた「立ち絵紙芝居」ですから、人形浄瑠璃や傀儡(くぐつ)まわしを踏襲した庶民向けの人形芝居として始まったのです。
人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれるようになって、後に国の無形文化財になりましたが、江戸時代に首からぶら下げた箱の上で人形をあやつってみせていた門付け(かどづけ)芸人のくぐつまわしは、衰退して姿を消してしまうことになりました。
日本の古典芸能と呼ばれる「能楽」「歌舞伎」「文楽」などは、「猿楽」と呼ばれた庶民向けの芸能から端を発したと言われています。
日本の「猿楽」は、中国から渡来した「散楽(さんがく)がルーツと言われています。散楽の「散」には、「雑多な」とか「正式なものではない」という意味があって、「散楽」には、手妻(手品)や軽業(かるわざ/アクロバット)、人形劇などいろいろな芸能が含まれていました。
平安時代には「笑いを誘うこっけいな寸劇」が人気を博して、やがて、それが「猿楽(さるがく)」と呼ばれるようになり、神社の祭礼や寺院の新年法会などで、盛んに演じられるようになりました。
猿楽からは、やがて「翁(おきな)」と呼ばれる仮面芸能や、歌と舞いが融合した「能」が生み出されていったのです。
「猿楽」は、中国渡来の散楽と仏教の教えが混じった芸能で、人々が集まりやすい神社やお寺の境内で演じられていましたが、観客は芝生に座って観ていたことから「芝に居る(座る)」で、「芝居」という言葉が生まれたと言われます。
紙芝居は、失業した人たちが糊口を凌ぐための大道芸としての「街頭紙芝居」として始まり広まっていったのですが、そのルーツを探ると「絵解き」という芸能に辿り着くのです。
「絵解き」は、寺院や神社に所蔵されていた宗教的な背景を持ったストーリーのある絵画の「説話画」を見せながら、その内容や思想を説き語る職能、芸能だったのです。
もともとは宗教的な教化や宣伝を目的としていた「絵解き」は、鎌倉時代以降、急速に大衆化、芸能化して、娯楽的な要素も加味されるようになりました。
絵画と語りが一体化した絵解きは、長年に亘って、文字が読めない庶民にとっては、学びという観点からも大切なものだったのです。
怪談「耳なし芳一」の主人公は琵琶の弾き語りで「平家物語」を語る琵琶法師として描かれていますが、僧侶によってうたわれる仏教の儀式の「声明」(せいめい)の芸能者だったと考えられます。
紙芝居の始まりは、絵巻物の「源氏物語」とする説もありますが、平安時代に描かれた絵巻物の「鳥獣戯画」は、当時、お寺に預けられて修行をしていた貴族の子弟の教育に使われていたのではないかと言われています。
人形浄瑠璃の元祖とされる人形芝居の「えびすかき」も西宮神社のえびす様のご神徳を広めることを目的にしていたように、日本の古典芸能は、単なる大道芸ではなく、教育事業でもあったと考えられます。
近世の紙芝居の誕生は、失業者が日銭を稼ぐためのなりわいとしての「街頭紙芝居」だったのですが、紙芝居を生むことになる着想は、古くは「絵解き」そして「猿楽」から派生した「狂言」や「人形浄瑠璃」などから得られたものと考えられます。
「街頭紙芝居」は、時代の混沌のなかから生まれた負の遺産として捉えられていますが、日本の伝統芸能をヒントにして「紙芝居」という新しい大衆芸能を生み出した人は、当時のパイオニアあるいはアントレプレナー(起業家)だったと捉えることもできます。
アントレプレナーは、「他の人と違うけれど違いすぎない人」で、何か全く新しいことを着想するわけではなく、今あることを組み合わせたり、視点を変えて取り組むことで新しい分野を切り拓くのです。
それまであった青空フリーマーケットをネットでの個人間売買に育てた「メルカリ」やスポットで空き時間を活用するバイトの仲介をする「タイミー」などと同じです。
しかし、「街頭紙芝居」は、子ども相手に水飴を売ってわずかばかりのお金を得るという芸能だったので、事業として成功することはなく、電気紙芝居と呼ばれたテレビの普及の影響で、衰退してしまう運命を辿ったのです。
紙芝居そのものは、「教育紙芝居」という形でたくさんの作品が作られて、幼児教育の現場で使われたり、図書館で貸し出される教材となっています。
もともとは教育を目的としていた「絵解き」を起源とする紙芝居ですから、教育ツールとして活用されることは、あって然るべきですが、さらにその価値を高めるためには、「プレゼンテーション力」を磨く教育ツールとして、あるいはアントレプレナーシップ(起業精神)を育成するツールとして活用するなどの道を模索する必要があると考えます。
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