室町時代から大阪の西宮神社の近くに住んでいたとされる人形遣い(くぐつ師)たちは、諸国を巡って、えびす様のご神徳を広める「えびすかき」と呼ばれる人形あやつりを演じて、人々を楽しませていました。
この人形あやつりが、人形浄瑠璃のルーツで、日本舞踊にも影響を与えたと考えられています。
17世紀の後半に、視覚的な表現としての「あやつり人形」と、声による表現の「浄瑠璃」とが結びついた町人の芸能として、「人形浄瑠璃」が生まれました。
19世紀の初めに上村文楽軒が大阪で人形浄瑠璃の興行を始めて、その一座が明治になってから「文楽座」と名乗ったので、人形浄瑠璃は「文楽」とも呼ばれるようになったのです。
「文楽」は、演奏や演技の技巧が追及されて、芸能として洗練されたものになり、1955年に国の「重要無形文化財」に指定され、2003年にはユネスコによって「人類の無形文化遺産」のひとつとして認定されました。
町民の芸能として始まったことから、「文楽」は、一般庶民にとって分かりやすく、親しまれる「写実芸」としての側面を残してきました。
人形は130~150センチもある大きさのもので、ひとつの人形を三人で繰る(遣う)「三人遣い」という世界的にも珍しい操作法をとっています。
語りは「義太夫」と呼ばれています。江戸時代に人気を博した「竹本義太夫」の語りが「義太夫節」と呼ばれるようになり、声の芸術を表す代名詞となったのです。
義太夫は、場面の説明や人物のせりふなど、物語の全てをひとりで語ります。物語に描かれる情景や人物の感情を抑揚や緩急を凝らして、聞き手に鮮明に伝えます。
江戸時代の前期から中期にかけて、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の作者として有名を馳せた「近松門左衛門」は、次のように述べています。
人形では表現しきれない「真の人間の心理や行動」に近づこうとするところに芸が生まれる。
義太夫は、
(1) 声優でもあり、ナレーターでもあり、ボーカリストでもある
(2) オールキャストの声を演じ分ける
(3) 声色ではなく、地声でどこまでも「らしく」を追求して語る
舞台が始まる時には、合図として二本の角材が打ち鳴らされて、舞台と客席を隔てる「定式幕(じょうしきまく)」が開きます。そして、義太夫が演目や演者を紹介する「口上」を述べます。
江戸時代後期の大阪には、浄瑠璃や義太夫節を習う稽古所が500軒もあって、愛好者は2万人以上もいたと言われています。明治時代の偉人である福沢諭吉や渋沢栄一も義太夫節を趣味にしていました。
紙の人形劇だった「立ち絵紙芝居」が人形浄瑠璃を、そして街頭紙芝居屋の語りも義太夫節を踏襲していたと考えることもできます。
文楽の演目は、三つのジャンルに分けられます。
「時代物」 歴史上の人物や事件の物語
「世話物」 江戸時代の庶民の生活を描いた現代劇
「景事」 舞踏劇などの音楽性豊かな作品
「立ち絵紙芝居」は時代劇が主流でしたが、「平絵紙芝居」は現代を舞台とした作品で、「男の子に人気の活劇」「女の子に人気の悲劇」そして「幼児向け漫画」の三つのジャンルがありました。
後に国から重要無形文化財に指定される「文楽」に対して、江戸時代に首から人形の箱をぶら下げて、その上で人形を繰っていた門付け(かどつけ)芸人の「くぐつまわし」は、姿を消してしまうのです。そして、時代は隔てていますが、平絵紙芝居の街頭紙芝居屋も衰退していくことになりました。
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